「 菊池寛 」


  • 仇討三態

  •  彼は、門付(かどづけ)をしながら、中国筋を上って、浪華(なにわ)へ出るまでに、半年もかかった。

    浪華表の倉屋敷で、彼は国元の母からの消息に接した。

    母は、自分が老衰のために死の近づいたのを報じて、彼が一日も早く仇を討って帰参することを、朝夕念じていると書いていた。

    彼は、母の消息を手にして、心が傷(いた)んだ。

    十一年の間、空しく自分を待ちあぐんでいる痛ましい母の心が、彼を悲しませた。

    彼は新しい感激で、大和から伊勢へ出て、伊勢から東山道を江戸へ下った。

    が、敵(かたき)らしいものの影をさえ見なかった。

    尋ねあぐんだ彼は、しようことなしに奥州路を仙台まで下ってみた。

    が、それも徒労の旅だった。

    江戸へ引っ返すと、碓氷峠を越えて信濃を経て、北陸路に出て、金沢百万石の城下にも足を止めてみた。

    が、その旅も空しい辛苦だった。

    近江から京へ上ったのが、元禄九年の冬の初めである。

    国を出てから、十四年の月日が空しく流れていた。

    故郷の空が、矢も楯もたまらないように恋しかった。

    二十二で、故郷を出た彼は、すでに初老に近かった。

    母が恋しかった。

    安易な家庭生活が恋しかった。

    無味単調な仇討の旅に、彼はもう飽き飽きしていた。

    が、一旦、仇討を志した者が、敵(かたき)を討たないで、おめおめと帰れるわけはなかった。

    行き暮れて辻堂に寝たときとか、汚い宿に幾日も降り籠められていたときなどには、彼はつくづく敵討が嫌になった。

    彼は、いっそ京か浪華かで町人になり下って、国元の母を迎えてのどかな半生を過そうかとさえ思った。

    が、少年時代に受けた武士(さむらい)としての教育が、それを許さなかった。

    彼は自分の武運の拙さが、しみじみ感ぜられた。

    それと同時に、自分の生涯をこれほど呪っている父の敵が、恨めしかった。

    彼は敵に対する憎悪を自分で奮い起しながら、またまた二年に近い間、畿内の諸国を探し回った。


2006-12-16T12:28:06

Wikipedia:菊池寛


菊池 寛(きくち かん、1888年(明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。
香川県高松市生まれ。本名は同一表記で「―ひろし」。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。香川県立高松高等学校 高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボタージュしていたのが原因で除籍 (学籍) 除籍処分を受けた。
しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として早稲田大学に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。1910年、早稲田を中退して第一高等学校 (旧制) 第一高等学校第一部乙類入学、しかし卒業直前に友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人成瀬正一の実家から援助を受けて京都大学 京都帝国大学文学部英文科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた。