「 斎藤茂吉 」


  • 念珠集

  •  或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、湯治客(たうぢきやく)がみんなして芝居の真似(まね)をした。

    何でも僕らは土戸(つちど)のところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。

    仙台から湯治に来てゐる媼(おうな)なども交つて芝居をした。

    その時父はひよつとこになつた。

    それから、そのひよつとこの面(めん)をはづして、囃子手(はやして)のところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。


2006-12-16T12:51:12

  • 仏法僧鳥

  • 『右手鳥居なかの一本は奥州仙台伊達政宗(だてまさむね)公。

    赤いおたまやは井伊かもんの守』かういふことを幕無しに云つて除(の)けた。


2006-12-16T12:32:05

Wikipedia:斎藤茂吉


斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年5月14日(戸籍では7月27日) - 1953年2月25日)は、山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)出身の歌人、精神科医である。伊藤左千夫門下。アララギ派の中心人物。長男は斎藤茂太。次男は北杜夫。斎藤由香は孫。
農民・守谷伝右衛門熊次郎の三男。父方の祖父・金沢治右衛門は和歌を嗜んだ。守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無かった。茂吉は、画家になるか、寺に弟子入りしようかと考えた。そして親戚の、浅草の医師・斎藤紀一の家に養子に入る。
守谷家は近所の時宗(のち浄土宗)宝泉寺の檀家であった。住職佐原窿応の薫陶を受けた。『赤光』の語源は「阿弥陀経」に因んでいる。また時宗大本山(のち浄土宗本山)蓮華寺49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。養子に入った斎藤家は、皮肉にも、蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。茂吉の分骨墓が宝泉寺境内に遺されている。