「 折口信夫 」


  • 古代生活の研究常世の国

  • 而も、まだ海河に祓へ捐つべき物が、臥し処には居る。

    其は牀虫の類で、蚤を以て代表させて居る。

    おなじ奥州仙台附近には「蚤の船」と言ふ草がある。

    節分の夜(?)に、其葉を寝牀の下に敷いて寝れば、蚤は其葉に乗つて去ると伝へてゐるよしを谷川磐雄氏から聞いた。

    さて、其牀虫は「蚤の船」に便乗して、どこへ流れて行くのか。

    縁もゆかりもなさ相な琉球本島では、初夏になると、蚤は麦稈の船に乗つて、麦稈の竿をさして、にらいかないからやつて来ると言ひ「にらいかないへ去つて了へ」と言うて蚤を払ふ。

    にらいかないの説明が私どもの祖先の考へて居たとこよの国と近よつて来るのである。


2006-12-16T12:42:31

Wikipedia:折口信夫


折口信夫(おりくち しのぶ、1887年(明治20年)2月11日~1953年(昭和28年)9月3日)は、日本の民俗学、国文学の研究者。釈迢空(しゃく ちょうくう)と号して詩歌もよくした。自らの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。生涯独身であった。
1887年(明治20年)2月11日、大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西町)に生れる。父秀太郎、母こう。七男二女の第七子、五男にあたる。生家は生薬や雑貨を扱う商家で、代々当主は医を兼ねていた。
1890年(明治23年)4歳にして木津幼稚園に通う。1892年(明治25年)木津尋常小学校に入学。1896年(明治29年)大阪市南区竹屋町育英高等小学校に転ず。1899年(明治32年)大阪府立天王寺高等学校 天王寺中学校に入学。同級の武田祐吉と相知る。1900年、大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという仮説がある(富岡多惠子『釋迢空ノート』)。富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。1904年、天王寺中学の卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかったといわれている。