「 幸田露伴 」


  • 蒲生氏郷

  •  氏郷が会津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の弥一右衛門は奥州の葛西大崎に封ぜられた。

    葛西大崎は今の仙台よりも猶(なお)奥の方であるが、政宗の手は既に其辺にまで伸びて居て、前年十一月に大崎の臣の湯山隆信という者を引込んで、内々大崎氏を図らしめて居たのである。

    秀吉が出て来さえしなければ、無論大崎氏葛西氏は政宗の麾下(きか)に立つを余儀なくされるに至ったのであろう。

    此の木村父子は小身でもあり、武勇も然程(さほど)では無い者であったから、秀吉は氏郷に対して、木村をば子とも家来とも思って加護(かば)って遣れ、木村は氏郷を親とも主(しゅ)とも思って仰ぎ頼め、と命令し訓諭した。

    これは氏郷に取っては旅行に足弱を托(かず)けられたようなもので、何事も無ければまだしも、何事か有った時には随分厄介な事で迷惑千万である。

    が、致方は無い、領承するよりほかは無かったが、果して此の木村父子から事起って氏郷は大変な目に会うに至って居るのである。


2006-12-16T12:50:15

  • 突貫紀行

  •  十日、東京に帰らんと欲すること急なり。

    されど船にて直航せんには嚢中(のうちゅう)足らずして興薄(うす)く、陸にて行かば苦(くるし)み多からんが興はあるべし。

    嚢中不足は同じ事なれど、仙台(せんだい)にはその人無くば已(や)まむ在らば我が金を得べき理(ことわり)ある筋あり、かつはいささかにても見聞を広くし経験を得んには陸行にしくなし。

    ついに決断して青森行きの船出づるに投じ、突然(とつぜん)此地を後になしぬ。

    別(わかれ)を訣(つ)げなば妨(さまた)げ多からむを慮(おもんぱか)り、ただわずかに一書を友人に遺(のこ)せるのみ。


2006-12-16T12:27:49

Wikipedia:幸田露伴


幸田 露伴(こうだ ろはん、慶応 (元号) 慶応3年7月23日 (旧暦) 7月23日(1867年8月20日) - 昭和22年(1947年)7月30日)は、日本の小説家。本名、成行(しげゆき)。別号には、蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雪音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。
『風流仏』で評価され、「五重塔」「運命」などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。第1回文化勲章受章。
慶応3年(1867年)7月23日、江戸下谷三枚橋横町に、四男として生を受ける。父は幕臣の幸田利三(成延)で、母は猷。幸田家は江戸時代、大名の取次を職とする表御坊主衆であった。幼名は鉄四郎。もともと病弱であり、生後27日目にして医者の世話になるなど、幼時は何度も生死の境をさまよったことがあった。翌年、上野戦争が起こったため、浅草諏訪町に移る。下谷に戻った後、神田 (千代田区) 神田に落ち着いた。下谷泉橋通りの関千代(書家関雪江の姉)の塾で手習い、御徒士町の相田氏の塾で素読を学んだ。明治8年(1875年)、千代の勧めで東京師範学校下等小学校(後の東京教育大学付属小学校)に入学。このころから草双草、読本を愛読するようになった。卒業後の明治11年(1878年)、東京都立日比谷高等学校 東京府第一中学に入学する。尾崎紅葉や上田萬年、狩野亨吉らと同級生であった。のちに中退し、14歳になったとき、東京英学校(現在の青山学院大学)へ進むが、これも途中退学。東京府図書館に通うようになり、淡島寒月を知った。また兄成常の影響で俳諧に親しみ、さらに菊地松軒の迎義塾では、漢学、漢詩を学んだ。