「 宮本百合子 」


  • 二つの庭

  •  医者のよびようもなくて、おいおい素子のあくびはおさまった。

    それから数年をへだてて素子はまたその青年とあった。

    そのときは仙台であった。

    青年はもう地方官としてそこにつとめていた。

    素子は、自分からそのひとを訪ねて行ったのであった。

    そして、勤めさきから、帰りにまわって来るそのひとを、土地の料亭で待った。

    芸者がよばれた。

    それは素子が云い出したことであった。


2006-12-16T12:50:53

  • 雑沓

  • 「ああこないだ順二郎のところへハガキをよこしたようだよ、仙台辺はもう大分朝晩さむいらしいよ」

2006-12-16T12:41:31

  • 私たちの建設

  •  憲法発布以前、封建の重荷を脱して新しい日本の社会を作ろうとする気運が純粋に高まっていた時代、その先頭に立ったのは板垣退助を首領として自由民権を唱え、一八八一年(明治十四年)に結成された自由党の人々であった。

    自由民権というとき、当時の日本人は必ず男女平等を考えた。

    政治上における男女平等の権利及び義務の観念に立った自由民権時代の政治運動は、たくさんの婦人政治家を、その活動に吸収した。

    例えば有名な中島湘煙(岸田俊子)、福田英子などという当時二十歳前後であった婦人政治家たちが、男女平等を唱えて日本全国を遊説した。

    大阪などでは少女が、政壇演説に出席したという話さえも伝っている。

    岡山には女子親睦会という政治結社が出来てあったし、仙台には女子自由党というのが組織されていた。

    その指導者は成田梅子という人であった。


2006-12-16T12:38:26

  • 一隅

  •  前の座席には小官吏らしい男が一人いるだけであったが、三等の狭い一ツの席に肥った私、更に肥った婆さんが押し並ぶのには苦笑した。

    十一時四十分上野発仙台行の列車で大して混んでいず、もっと後ろに沢山ゆとりはあるのだ。

    婆さんの連れは然し、

2006-12-16T12:36:35

  • 現実に立って――婦人が政治をどう見るか――

  •  日本の歴史は、惨憺たる進歩性の敗退の跡を示している。

    明治維新によって、名目上の民権が認められ、新しい日本を建設しようという希望に燃えた一団の人々は明治十四年(一八八一年)自由党を結成した。

    有名な中島湘煙(岸田俊子)が十九歳で政談演説を行い、婦人政治家として全国遊説をし、岡山に女子親睦会というのが出来た。

    成田梅子は、仙台に女子自由党を組織し、男女同権という声は、稚拙ながら新興の意気をもって、日本全国に響いたのであった。


2006-12-16T12:36:15

2006-12-16T12:35:36

Wikipedia:宮本百合子


宮本 百合子(みやもと ゆりこ、1899年2月13日 - 1951年1月21日)は昭和期の小説家、評論家。旧姓中條(ちゅうじょう)。本名ユリ。日本女子大学英文科中退。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場、天才少女として注目を集め、その後もプロレタリア文学の作家、民主主義文学のリーダーとして活躍した。
東京市小石川区(現・文京区)に大正期の著名な建築家中條精一郎と葭江の長女として生まれる(本籍は福島県郡山市南町)。父・精一郎は山形県米沢市 米沢に生まれ、福島市で小学校を卒業して上京、東京帝国大学工科大学建築科を卒業後文部省の技師を経て札幌農学校土木工学科講師嘱託となった。母・葭江は明治初期に思想家として活躍した西村茂樹の長女であった。祖父・中條政恒は米沢藩士であり福島県典事を勤め、安積疎水の開鑿に尽力した。