「 太宰治 」


  • 新釈諸国噺

  •  後柏原(ごかしわばら)天皇大永(たいえい)年間、陸奥(みちのく)一円にかくれなき瀬越の何がしという大賊、仙台名取川(なとりがわ)の上流、笹谷峠(ささやとうげ)の附近に住み、往来の旅人をあやめて金銀荷物押領(おうりょう)し、その上、山賊にはめずらしく吝嗇(りんしょく)の男で、むだ使いは一切つつしみ、三十歳を少し出たばかりの若さながら、しこたまためて底知れぬ大長者になり、立派な口髭(くちひげ)を生(は)やして挙措(きょそ)動作も重々しく、山賊には附(つ)き物(もの)の熊(くま)の毛皮などは着ないで、紬(つむぎ)の着物に紋附(もんつ)きのお羽織をひっかけ、謡曲なども少したしなみ、そのせいか言葉つきも東北の方言と違っていて、何々にて候(そうろう)、などといかめしく言い、女ぎらいか未(いま)だに独身、酒は飲むが、女はてんで眼中に無い様子で、かつて一度も好色の素振りを見せた事は無く、たまに手下の者が里から女をさらって来たりすると眉(まゆ)をひそめ、いやしき女にたわむれるは男子の恥辱に候、と言い、ただちに女を里に返させ、手下の者たちが、親分の女ぎらいは玉に疵(きず)だ、と無遠慮に批評するのを聞いてにやりと笑い、仙台には美人が少く候、と呟(つぶや)いて何やら溜息(ためいき)をつき、山賊に似合わぬ高邁(こうまい)の趣味を持っている男のようにも見えた。

    この男、或(あ)る年の春、容貌(ようぼう)見にくからぬ手下五人に命じて熊の毛皮をぬがせ頬被(ほおかぶ)りを禁じて紋服を着せ仙台平(せんだいひら)の袴(はかま)をはかせ、これを引連れて都にのぼり、自分は東(あずま)の田舎大尽(だいじん)の如(ごと)くすべて鷹揚(おうよう)に最上等の宿舎に泊り、毎日のんきに京の見物、日頃(ひごろ)けちくさくため込んだのも今日この日の為(ため)らしく、惜しげも無く金銀をまき散らし、やがてもの言わぬ花にも厭(あ)きて、島原(しまばら)に繰り込み、京で評判の名妓(めいぎ)をきら星の如く大勢ならべて眺(なが)め、好色の手下の一人は、うむと呻(うめ)いて口に泡(あわ)を噴きどうとうしろに倒れてそれお水それお薬、お袴をおぬぎなさったら、などと大騒ぎになったのも無理からぬほど、まばゆく見事な景趣ではあったが、大尽は物憂(ものう)そうな顔して溜息をつき、都にも美人は少く候、と呟く。

    広い都も、人の噂(うわさ)のために狭く、この山賊の奢(おご)りは逸早(いちはや)く京中に拡(ひろ)まり、髭そうろうの大尽と言われて、路(みち)で逢(あ)う人ことごとくがこの男に会釈(えしゃく)するようになったが、この男一向に浮かぬ顔して、やがて島原の遊びにもどうやら厭きた様子で、毎日ぶらりぶらりと手下を引連れて都大路を歩きまわり、或る日、古い大きな家の崩れかかった土塀(どべい)のわれ目から、ちらと見えた女の姿に足をとどめ、手にしていた扇子(せんす)をはたと落して、小山の動くみたいに肩で烈(はげ)しく溜息をつき、シばらスい、と思わず東北訛(なまり)をまる出しにして呻き、なおもその、花盛りの梨(なし)の木の下でその弟とも見える上品な男の子と手鞠(てまり)をついて遊んでいる若い娘の姿に、阿呆(あほう)の如く口をあいて見とれていた。

    翌(あく)る日、髭そうろうの大尽は、かの五人の手下に言いふくめて、金銀綾錦(あやにしき)のたぐいの重宝をおびただしく持参させ、かの土塀の家に遣(つかわ)し、お姫様を是非とも貰(もら)い受けたしと頗(すこぶ)る唐突ながら強硬の談判を開始させた。

    その家の老主人は、いささか由緒(ゆいしょ)のある公卿(くげ)の血筋を受けて、むかしはなかなか羽振りのよかった人であるが、名誉心が強すぎて、なおその上の出世を望み、附合いを派手にして日夜顕官に饗応(きょうおう)し、かえって馬鹿にされておまけに財産をことごとく失い、何もかも駄目(だめ)になり、いまは崩れる土塀を支える力も無く中風の気味さえ現われて来て、わななく手でさてもこの世は夢まぼろしなどとへたくその和歌を鼻紙の表裏に書きしたためて、その日その日の憂(う)さを晴らしている有様だったので、この突然の申込みにはじめは少からず面くらったものの、さて、眼前に山と積まれた金銀財宝を眺めて、これだけあれば、ふたたび大官に饗応し、華やかに世に浮び上る事が出来るぞと、れいの虚栄心がむらむらと起り、髭そうろうの大尽といえば、いま此(こ)の京でも評判の男、なんでも遠いあずまの大金持ちの若旦那(わかだんな)だとかいう話だ、田舎者だって何だって金持ちなら結構、この縁談は悪くない、と貧すれば貪(どん)すの例にもれず少からず心が動いて、その日はお使者に大いに愛嬌(あいきょう)を振りまき、確答は後日という事にして、とにかくきょうのお土産の御礼にそちらの御主人の宿舎へ明日参上致します、という返辞。

    手下たちは、しめた、あの工合(ぐあ)いではもう大丈夫、と帰る途々(みちみち)首肯(うなず)き合い、主人にその様子を言上すれば、山賊の統領はにやりと凄(すご)く笑い、案外もろく候、と言った。

    その翌る日、土塀の老主人は、烏帽子(えぼし)などかぶってひどくもったいぶった服装で山賊の京の宿舎を訪ね、それこそほんものの候言葉で、昨日のお礼を申し、統領の鷹揚な挙措や立派な口髭に一目で惚(ほ)れ込み、お礼だけ言う筈(はず)のところを、つい、ふつつかな娘ながら、とこちらのほうから言い出して、山賊の統領もさすがに都の人の軽薄に苦笑して、それでもその日の饗応は山の如く、お土産も前日にまさる多額のもので、土塀のあるじはただもう雲中を歩む思いで烏帽子を置き忘れて帰宅し、娘を呼んで、女三界(さんがい)に家なし、ここはお前の家ではない、お前の弟がこの家を継ぐのだからお前はこの家には不要である、女三界に家なしとはここのところだ、とひどい乱暴な説教をして娘を泣かせ、何を泣くか、お父さんはお前のために立派な婿(むこ)を見つけて来てあげたのに、めそめそ泣くとは大不孝、と中風の気味で震える腕を振りあげて娘を打つ真似(まね)をして、都の人は色は白いが貧乏でいけない、あずまの人は毛深くて間の抜けた顔をしているが女にはあまいようだ、行きなさい、すぐに山奥へでもどこへでも行きなさい、死んだお母さんもよろこぶだろう、お父さんの事は心配するな、わしはこれからまた一旗挙げるのだ、承知か、おお、承知してくれるか、女三界に家なし、どこにいたって駄目なものだよ、などと変な事まで口走り、婿の氏素性(うじすじょう)をろくに調べもせず、とにかくいま都で名高い髭そうろうの大尽だから間違い無しと軽率にひとり合点(がてん)して有頂天のうちにこの縁談をとりきめ、十七の娘は遠いあずまのそれも蝦夷(えぞ)の土地と聞く陸奥へ嫁(とつ)がなければならぬ身の因果を歎(なげ)き、生きた心地も無くただ泣きに泣いて駕籠(かご)に乗せられ、父親ひとりは浅間しく大はしゃぎで、あやうい腰つきで馬に乗り都のはずれまで見送り、ひたすら自分の今後の立身出世を胸中に思い描いてわくわくして、さらば、さらば、とわかれの挨拶(あいさつ)も上の空で言い、家へ帰って五日目に心臓痲痺(まひ)[#「痲痺」は底本では「痳痺」]を起して頓死(とんし)したとやら、ひとの行末は知れぬもの。

    一方、十七の娘は、父のあわれな急死も知らず駕籠にゆられて東路(あずまじ)をくだり、花婿の髭をつくづく見ては言いようのない恐怖におそわれて泣き、手下の乱暴な東北言葉に胆(きも)をつぶして泣き、江戸を過ぎてようよう仙台ちかくなって春とはいえ未(ま)だ山には雪が残っているのを見て泣き、山賊たちをひどく手こずらせて、古巣の山寨(さんさい)にたどり着いた頃には、眼を泣きはらして猿(さる)の顔のようになり、手下の山賊たちは興覚めたが、統領はやさしくみずから看護して、その眼のなおった頃には娘も、統領に少しなついて落ちつき、東北言葉もだんだんわかるようになって、山賊の手下たちの無智(むち)な冗談に思わず微笑(ほほえ)み、やがて夫の悪い渡世を知るに及んで、ぎくりとしたものの、女三界に家なし、ここをのがれても都の空の方角さえ見当つかず、女はこうなると度胸がよい、ままよと観念して、夫には優しくされ手下の者たちには姐御(あねご)などと言われてかしずかれると、まんざら悪い気もせず、いつとはなしに悪にそまり、亭主(ていしゅ)のする事なす事なんでも馬鹿(ばか)らしく見えて仕様のない女房(にょうぼう)もあり、また、亭主の行為がいちいち素晴らしい英雄的なものに見えてたまらない女房もあり、いずれも悪妻、この京育ちの美女は後者に属しているらしく、夫の憎むべき所業も見馴(みな)れるに随(したが)い何だか勇しくたのもしく思われて来て、亭主が一仕事して帰るといそいそ足など洗ってやり、きょうの獲物は何、と笑って尋ね、旅人から奪って来た小袖(こそで)をひろげて、これは私には少し派手よ、こんどはも少し地味なのをたのむわ、と言ってけろりとして、手下どものむごい手柄話(てがらばなし)を眼を細めて聞いてよろこび、後には自分も草鞋(わらじ)をはいて夫について行き、平気で悪事の手伝いをして、いまは根からのあさましい女山賊になりさがり、顔は以前に変らず美しかったが眼にはいやな光りがあり、夫の山刀を井戸端(いどばた)にしゃがんで熱心に研(と)いでいる時の姿などには鬼女のような凄(すご)い気配が感ぜられた。

    やがてこの鬼女も身ごもり、生れたのは女の子で春枝と名づけられ、色白く唇(くちびる)小さく赤い、京風の美人、それから二年経(た)って、またひとり女の子が生れ、お夏と呼ばれて、父に似て色浅黒く眼が吊(つ)り上ったきかぬ気の顔立ちの子で、この二人は自分の母が京の公卿の血を受けたひとだという事など知る筈もなく、氏より育ちとはまことに人間のたより無さ、生れ落ちたこの山奥が自分たちの親代々の故郷とのんきに合点して、鬼の子らしく荒々しく山坂を駈(か)け廻(まわ)って遊び、その遊びもままごとなどでは無く、ひとりは旅人、ひとりは山賊、おい待て、命が惜しいか金が惜しいかとひとりが言えば、ひとりは助けて! と叫んでけわしい崖(がけ)をするする降りて逃げるを、待て待て、と追ってつかまえ大笑いして、母親はこれを見て悲しがるわけでもなく、かえって薙刀(なぎなた)など与えて旅人をあやめる稽古(けいこ)をさせ、天を恐れぬ悪業、その行末もおそろしく、果せる哉(かな)、春枝十八お夏十六の冬に、父の山賊に天罰下り、雪崩(なだれ)の下敷になって五体の骨々微塵(みじん)にくだけ、眼もあてられぬむごたらしい死にざまをして、母子なげく中にも、手下どもは悪人の本性をあらわして親分のしこたまためた金銀財宝諸道具食料ことごとく持ち去り、母子はたちまち雪深い山中で暮しに窮した。


2006-12-16T12:50:34

  • 惜別

  •  先日、この地方の新聞社の記者だと称する不精鬚(ぶしょうひげ)をはやした顔色のわるい中年の男がやって来て、あなたは今の東北帝大医学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか、と問う。

    そのとおりだ、と私は答えた。


2006-12-16T12:44:59

  • お伽草紙

  •  ここは東北の仙台郊外、愛宕山の麓、広瀬川の急流に臨んだ大竹藪の中である。

    仙台地方には昔から、雀が多かつたのか、仙台笹とかいふ紋所には、雀が二羽図案化されてゐるし、また、芝居の先代萩には雀が千両役者以上の重要な役として登場するのは誰しもご存じの事と思ふ。

    また、昨年、私が仙台地方を旅行した時にも、その土地の一友人から仙台地方の古い童謡として次のやうな歌を紹介せられた。


2006-12-16T12:44:41

  • 家庭の幸福

  •  津島修治は、東京都下の或る町の役場に勤めていた。

    戸籍係りである。

    年齢は、三十歳。

    いつも、にこにこしている。

    美男子ではないが血色もよく、謂わば陽性の顔である。

    津島さんと話をしておれば苦労を忘れると、配給係りの老嬢が言った事があるそうだ。

    二十四歳で結婚し、長女は六歳、その次のは男の子で三歳。

    家族は、この二人の子供と妻と、それから、彼の老母と、彼と、五人である。

    そうして、とにかく、幸福な家庭なんだ。

    彼は、役所に於いては、これまで一つも間違いをし出かさず、模範的な戸籍係りであり、また、細君にとっては模範的な亭主であり、また、老母にとっては模範的な孝行息子であり、さらに、子供たちにとっても、模範的なパパであった。

    彼は、酒も煙草もやらない。

    我慢しているのでは無く、ほしくないのだ。

    細君がそれを全部、闇屋(やみや)に売って、老母や子供のよろこぶようなものを買う。

    ケチでは無いのだ。

    夫も妻も、家庭をたのしくするために、全力を尽しているのだ。

    もともと、この家族は、北多摩郡に本籍を有していたのであったが、亡父が中学校や女学校の校長として、あちこち転任になり、家族も共について歩いて、亡父が仙台の某中学校の校長になって三年目に病歿したので、津島は老母の里心を察し、亡父の遺産のほとんど全部を気前よく投じて、現在のこの武蔵野(むさしの)の一角に、八畳、六畳、四畳半、三畳の新築の文化住宅みたいなものを買い、自分は親戚(しんせき)の者の手引きで三鷹(みたか)町の役場に勤める事になったのである。

    さいわい、戦災にも遭わず、二人の子供は丸々と太り、老母と妻との折合いもよろしく、彼は日の出と共に起きて、井戸端で顔を洗い、その気分のすがすがしさ、思わずパンパンと太陽に向って柏手(かしわで)を打って礼拝するのである。

    老母妻子の笑顔を思えば、買い出しのお芋六貫も重くは無く、畑仕事、水汲(みずく)み、薪割(まきわ)り、絵本の朗読、子供の馬、積木の相手、アンヨは上手、つつましきながらも家庭は常に春の如く、かなり広い庭は、ことごとく打ちたがやされて畑になってはいるが、この主人、ただの興覚めの実利主義者とかいうものとは事ちがい、畑のぐるりに四季の草花や樹の花を品よく咲かせ、庭の隅の鶏舎の白色レグホンが、卵を産む度に家中に歓声が挙り、書きたてたらきりの無いほど、つまり、幸福な家庭なんだ。

    つい、こないだも、同僚から押しつけられて仕方無く引き受けた「たからくじ」二枚のうち、一枚が千円の当りくじだったが、もともと落ちついた人なので、あわてず騒がず、家族の者たちにもまた同僚にも告げ知らせず、それから数日経って出勤の途中、銀行に立ち寄って現金を受け取り、家庭の幸福のためには、ケチで無いどころか万金をも惜しまぬ気前のいいひとなのだから、彼の家のラジオ受信機が、ラジオ屋に見せても、「修繕の仕様が無い」と宣告されたほどに破損して、この二、三年間ただ茶箪笥の上の飾り物になっていて、老母も妻も、この廃物に対して時折、愚痴を言っていたのを思い出し、銀行から出たすぐその足でラジオ屋に行き、躊躇(ちゅうちょ)するところなく気軽に受信機の新品を買い求め、わが家のところ番地を教えて、それをとどけるように依頼し、何事も無かったような顔をして役場に行き執務をはじめる。


2006-12-16T12:42:56

  • 散華

  •  私のところへ、はじめてやって来た頃は、ふたり共、東京帝大の国文科の学生であった。

    三田君は岩手県花巻町の生れで、戸石君は仙台、そうして共に第二高等学校の出身者であった。

    四年も昔の事であるから、記憶は、はっきりしないのだが、晩秋の(ひょっとしたら初冬であったかも知れぬ)一夜、ふたり揃って三鷹の陋屋に訪ねて来て、戸石君は絣(かすり)の着物にセルの袴(はかま)、三田君は学生服で、そうして私たちは卓をかこんで、戸石君は床の間をうしろにして坐り、三田君は私の左側に坐ったように覚えている。


2006-12-16T12:34:39

  • 親という二字

  •  罹災(りさい)したおかたには皆おぼえがある筈(はず)だが、罹災をすると、へんに郵便局へ行く用事が多くなるものである。

    私が二度も罹災して、とうとう津軽の兄の家へ逃げ込んで居候(いそうろう)という身分になったのであるが、簡易保険だの債券売却だのの用事でちょいちょい郵便局に出向き、また、ほどなく私は、仙台の新聞に「パンドラの匣(はこ)」という題の失恋小説を連載する事になって、その原稿発送やら、電報の打合せやらで、いっそう郵便局へ行く度数が頻繁(ひんぱん)になった。


2006-12-16T12:34:11

Wikipedia:太宰治


name 太宰 治
caption
pseudonym
birth_name 津島 修治(つしま しゅうじ)
birth_place 青森県北津軽郡金木町 金木村(現・青森県五所川原市)
death_place 東京都北多摩郡三鷹市 三鷹町(現・東京都三鷹市)
occupation 小説家、作家
period 1933 - 1948
genre 小説
subject
movement 新戯作派、無頼派
notable_works 走れメロス、斜陽、人間失格
debut_works 列車
spouse 津島美知子(1938 - 1948)
partner
children 津島佑子(作家)津島雄二(政治家)太田治子(小説家)
relations 津島文治(兄・政治家)
influences 芥川龍之介、泉鏡花、プロレタリア文学、井伏鱒二、佐藤春夫