「 坂口安吾 」


  • 諦めている子供たち

  •  小学校四五六年生くらいの子供の言葉と思っていただけばよい。

    新潟県は土地々々で非常に方言がちがい新発田あたりだけはまるで仙台弁のように鼻にかかる少地域なぞが介在したりするが、いま書いたのは新潟市の方言だ。

    新潟の子供たちは小にしてすでに甚しく諦観が発達しており、こういう言い方をするのが決して珍しくはないのである。

    それというのが彼らのオトトやオカカが常にそういう見方や感じ方や言い方をしているからで、要するに先祖代々ずッとそうだということになる。


2006-12-16T12:30:20

  • 明治開化安吾捕物その八時計館の秘密

  •  戦争に負けたが、正二郎も加えて十三名のこの一隊、一人も手傷を負った者がない。

    要領のいい奴らで、戦争を遊山(ゆさん)と心得てかりそめにも勇み立つようなところがない。

    しばらく旅にでるのも面白かろうと、江戸を逃げのびて、中山道から道をかえて奥州へ。

    戦争話の駄ボラを吹きながら、無銭飲食、無銭遊興を重ねて、二本松から、仙台、とうとう塩竈まで逃げ落ちた。

    道々の諸侯の動勢は予期に反して必ずしも幕府方ではない。

    豪傑ぶって落武者をひけらかしていると、いつ召し捕えられるか知れたものではない。

    江戸へ帰るわけにはいかないから、船で松前へ落ちのびることにきめた。

    ところが、船をだしてくれる船頭がいないのである。

    カカリアイになるのが怖いから、特別の船をだしたがらない。

    松前行きの便船がでるまで待て、というので、一行は一ヶ月ほど塩竈の遊女屋に流連(いつづけ)して便船を待った。

    もうヤケだった。

    召し捕るなり、殺すなり、勝手にしろ。

    刀をふりまわして死んでやるから。

    刀をひきよせ鯉口(こいぐち)をきッて酒を浴びつづけている。

    遊女屋も疫病神とあきらめはしても、彼らが浴びるほどの酒を連日はだしきれない。

    そこで酒の徴発に差しむけられるのが正二郎であった。

    彼が酒屋へ行って、おとなしく頼んでダメの時は、一同が刀をぬいてサイソクに行くから、最後にはどこでも、だした。


2006-12-16T12:26:49

Wikipedia:坂口安吾


坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、エッセイスト。本名は炳五(へいご)。旧私立豊山中学校卒業後、代用教員を経て東洋大学文学部印度哲学倫理科卒業。純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸から時代風俗まで広範に材を採るエッセイまで、多彩な領域にわたって活動した。終戦直後に発表した『堕落論』などにより時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。
晩年に生まれた一人息子の坂口綱男は写真家。
新潟県新潟市西大畑町(現・中央区 (新潟市) 中央区西大畑町)に、父・坂口仁一郎、母・アサの五男、13人兄弟の12番目として生まれる。名前(炳五)の由来は、「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。坂口家は代々の旧家、大地主であり、「阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きることがない」と言われるほどの富豪だった。仁一郎は憲政本党所属の衆議院議員で、かつ「五峰」の号をもつ漢詩人で、新潟新聞(現・新潟日報)の社長などを務めた。政治家としては、若槻禮次郎、加藤高明らと、文学者としては会津八一と親交があった。仁一郎は政治に大金を注ぎ込み、安吾の生まれた頃は家は傾きかけていた。アサは仁一郎の後妻で、安吾はこの傾いた家計を支えるのに苦労していた母親から愛されなかったという思いを抱いて成長する。兄の献吉は新潟日報やラジオ新潟の社長などを務めた。