「 内田魯庵 」


  • 貧書生

  • と伸(のび)をした手で腕を撫(さず)りながら、「銭が儲かるの儲からんのと政治家や文学者を気取る先生方が俗な事を仰(おつ)しやる。

    銭が儲けたいなら僕の所為(まね)をし給へ。

    君達は理窟を云ふが失敬ながら猶だ社会を知つておらんやうだ。

    先ア僕の説を聞給へ。

    斯う見えて僕は故郷(くに)に在(ゐ)た時分は秀才と云はれて度々新聞雑誌に投書をして褒美を貰つた事もある。

    四五年前の雑誌を見給へ、駿州有渡郡(うどごほり)田子の浦在(ざい)駿河不二郎の名がチヨク/\見えるよ。

    それだから故郷を出る時は矢張(やつぱり)人並に学若し成らずんば死すとも帰らずと力んだが、さア東京へ来て見ると迚(とて)も満足な学費が無くては碌な学問は出来ない。

    新聞や牛乳の配達をして相間(あひま)に勉強しやうてのは、(亀井君は現にやつておるが子)、実は中々忙がしくて、片手間の勉強で成効しやうてのは百年黄河の澄むを待(まつ)やうなもんだ。

    所で僕は発身(ほつしん)して商人(あきんど)と宗旨を換え、初めは資本(もとで)が無いから河渫ひの人足に傭はれた事もある。

    点灯会社に住込んで脚達(きやたつ)を担(かつい)で飛んだ事もある、一杯五厘のアイスクリームを売つた事もある。

    西瓜の切売をした事もある、とゞの結局(つまり)が縁日商人となつて九星(きうせい)独(ひとり)判断(はんだん)、英語独稽古から初めて此頃では瞞着(まやかし)の化粧品と小間物を売つてマゴ/\しておるが君、金を儲けるのは商人だよ。

    殊に縁日商人位泡沫(あぶく)銭の儲かる者は無い。

    僅か二両か三両の資本(もと)で十両位浮く事がある。

    尤も雨降のアブレもある。

    品物のロウズも出るから儲かるほどに金は残らんが子、なにしろ独立の商人でお客様の外は頭を下げずに太平楽を云つて、定(きま)つた給金と違つて不意の所得(まうけ)の入る処が面白い。

    君だから内幕を話すが二銭に三箇(みつゝ)の石鹸(シヤボン)ナ。

    あれは一百(いつそく)一貫の品だ。

    一と晩に一百売ると五貫余儲かる、夏向になると二百や三百は瞬く間に売れる。

    一番高い六銭の石鹸ナ、あれは一グロス二両と四貫だ。

    あの品が躰裁が妙(おつ)に出来てるんで素人(しろうと)が惚込んで三ダースや四ダースは直ぐ売れる。

    それから歯磨ナ、あれは子コになつてる歯磨を升(ます)で買つて来て竜脳(りゆうなう)を些(ちつ)とばかり交ぜて箱詰にして一と晩置くとプンと好い香がする、そいつをオンタケ散とか豚印とか好い加減な名を付けた袋へ入れて一と袋一銭五厘に売るんだ。

    奈何だい、商人の楽屋は驚いたもんだらう。

    尤も僕の商売は夏向で冬は閑な方だが、こゝ君達に一つ秘策を授けやうかナ。

    懸賞小説を書いたり政治家の尻馬に乗るより余程(よつぽど)気楽に儲けることが出来る。

    斯ういふ商売だ。

    牛込や神田には向かんが本所、下谷、小石川の場末、千住(せんじゆ)、板橋辺(あたり)で滅法売れる、胼(ひゞ)あかぎれ霜傷(しもやけ)の妙薬鶴の脂、膃肭臍(おつとせい)の脂、此奴(こいつ)が馬鹿に儲かるんだ。

    なアに鶴や膃肭臍が滅多に取れるものか。

    豚の脂や仙台鮪(まぐら)の脂肪肉(あぶらみ)で好いのだ。

    脂でさへあれば胼あかぎれには確に効く。

    此奴を一貝(ひとかひ)一銭に売るんだが二貫か三貫か資本(もと)で一晩二両三両の商売(あきなひ)になる。

    詐偽も糞もあるもんか。

    商人は儲けさへすりやア些と位人に迷惑を掛けても関(かま)はんのだ。

    今の大頭株(あほあたまかぶ)を見給へ、紳商面をして澄ましてやがるが、成立(なりたち)は悉皆(みんな)僕等と仝じ事だ。

    今でも猶だ其根性が失せないから大きな詐偽や賭博(ばくち)の欺瞞(いかさま)をやつて実業家だと仰しやいますヮ……」と滔々(たう/\)と縁日の口上口調で饒舌(しやべ)り立てる大気焔に政治家君も文学者君も呆気(あつけ)に取られて眼ばかりパチクリさせてゐた。

    処へ案内もなく障子をガラリと開けて、方面(はうめん)無髯(むぜん)の毬栗(いがぐり)頭がぬうッと顔を出した。


2006-12-16T12:41:13

Wikipedia:内田魯庵


内田 魯庵(うちだ ろあん、慶応4年4月5日 (旧暦) 4月5日(1868年4月27日) - 1929年(昭和4年)6月29日)は、明治期の評論家、翻訳家、小説家。本名貢(みつぎ)。別号不知庵(ふちあん)、三文字屋金平(さんもんじやきんぴら)など。江戸下谷車坂六軒町(現東京都台東区)生まれ。
旧幕臣の子として生まれる。はじめは政治・実業に関心を持ち、立教学校(現立教大学)や東京専門学校(現早稲田大学)などで英語を学ぶが結局どこも卒業せず、文部省編輯局翻訳係であった叔父・井上勤のもとで下訳や編集の仕事をする。生来の語学好きにより文学作品の愛読者となった。1888年、山田美妙の『夏木立』が刊行されると長文の批評を書き、それが巌本善治の「女学雑誌」に『山田美妙大人(うし)の小説』として掲載され、文壇にデビューした。